2007/10/08
2007/09/21
2007/09/13
ラグビーワールドカップ
2007/09/01
2007/08/23
Google Skyは面白いなあ
google earthの最新版で夜空を眺めるように星々を観察できるGoogleSkyという機能が追加されたというニュースがテレビでやっていたので早速ダウンロードしてみた。
これは面白いですね、って10分間やってみただけだけど。
ここ数年位きれいな星空を観てなかったものだから尚更感動した。
こんなに高解度に映っている星々を観ようと思ったら、立派な天文台のドデカ電子望遠鏡じゃないと無理だろうし、それと同じような体験を手軽に提供してくれるgoogleはやっぱ凄いなあとこれは久しぶりに手放しに賞賛。
そういえば、少年時代、僕にも「宇宙マイブーム」の時期があった。
天文ガイドとかいう小難しい科学雑誌を親に買ってもらっては星空に夢を膨らませたものだ。
ちなみにその雑誌は望遠鏡関連の広告記事が全ページの3分の2以上を占めていたのだけれども(笑)、当時から物欲だけは人一倍強かった僕はそれら広告記事におおいに物欲を刺激され、親に数十万円もする望遠鏡を強くねだった。
結局数十万円のモノは(当然)無理だったが、父親と一緒に天文ガイドの中の広告にじっくり目を通し、確か2万か3万位の比較的安価な望遠鏡を買ってもらうことになった。
それでその望遠鏡では月のクレーターだけははっきりと観察できてそれはそれなりに感動したのだが、あとの星々は望遠鏡に不着しているホコリなんだかなんだかさっぱりみわけがつかない感じで、とても天文ガイドに掲載されていたような色鮮やかなナントカ恒星群だとかナントカビッグバンなどはみることができなかった。
それでこれは望遠鏡の中に何か問題があるのだろう、そもそも中はどんな構造になっているのだろうというという問題意識をもった僕は望遠鏡の筐体を分解してみた。
しかし中は空っぽで底面に鏡がくっついているだけという、非常にシンプルな作りであった。まあ今考えれば望遠鏡というのはそういうものだと理解できるのだが、当時の僕はひどくがっかりし、拍子抜けしてしまった。さらにはその分解のせいで筐体の中にホコリが混入してしまい、その後はレンズを覗いても不着しているホコリしか見えなくなったので、当時の僕はすっかり興味をなくし、そのおっきなオモチャはその後間もなくして押し入れ行きとなった。そして星空への思いもいつのまにかどこかに消えてしまっていた。
暫く前に実家に帰って押し入れをみてみたらその役立たずの望遠鏡がまだポツンと仕舞ってあった。僕はしばらくカレ(望遠鏡)と見つめあい、お互い無言で今後の処遇についてしばし考えてみたが、結局カレを粗大ゴミとして切り捨てる気にはなれず、いまだそのままにしてある。
google skyをいじくっていたらそんな子供時代の記憶が蘇った。
2007/08/19
プラダを着た大統領 — The president wears Prada
大統領就任直後のバカンスに続き、また今回のサルコジ仏大統領の米国バカンスを誰がファイナンスしたのかが問題になっている。
流しで聴いていてちょっと記憶に残ったニュースの情報なのでいつものごとく曖昧だが、どうも例の豪華コテージはフランスプラダの社長かどなたかの所有だそうだ。
そういえばサルコジって大統領就任式の時もプラダのスーツだったし、奥さんのセシリアはプラダのドレス、子供達はミュウミュウのドレス。で、こんな時になんでフランスのオートクチュール着ないでイタリアものなんだって批判もあった。
ははプラダがタニマチなんてなんかいいよね、よ!大統領。て、いいのか?
ちなみにセシリアはおしゃれで華があって有能なファーストレディとして結構人気がある。お固い週刊誌Nouvelle obsさえも先週はセシリア特集。
でもいろんな報道をみる限りでの印象だけど、なんか少し気難しい方のようで。今回のバカンスでもサルコジ一家はパパブッシュの別荘に招待されるという特別待遇を受けながら、セシリアは体調不良(仮病とか)を理由に子供達と共に欠席。結局ブッシュファミリー勢揃いの歓待にサルコジ一人だけ、となんかサルコジ可哀想、なんてこともあったけど、やっぱりそんなセシリアは僕はあまり好きになれないなあ。
2007/08/18
ペルーに各国救助隊到着
さっきからぼけっとニュースを眺めているので今日立て続けに二件目のエントリー。
先般のペルー地震を受け、世界各国から緊急救助隊が続々と到着、現地に着くやいなや早速生存者救出作業を開始している。
これを受けペルー大統領は「互助精神のグローバル化のあらわれ」と感謝のコメントを出していたが、これをみて阪神震災の際の我が国行政のまごつきをふと思い出した。
確かあの時は法制だとか受け入れ体制がどうのこうので各国のせっかくの申し入れをお断りしていたんじゃなかったでしたっけ?なんか歯がゆい日本の行政。
時の村山総理はテレビをみながら「いやーこれは大変な事がおきたね」と他人事のような顔してお茶をすすっていたらしいけど、まあそれは彼が社会党党首のオトボケ平和主義者であったことと無縁ではないはず。
そんなことをこないだ書いたエントリーとかねて思い出してたんですけど、そんなこんなの左翼の自壊をもって20世紀終盤の「歴史の終焉」になるんでしょうか。米国人であるフランシスフクヤマらしい言葉だけど、当時の米国のオプチミズムを反映した考え方ですね。最近の彼の論調はどうなっているでしょうか。気になります。
僕は彼に対抗して「歴史の復活」とか唱えてみようかな。
ではまた。
ダイエットに市が報奨金
さっきのニュース。
イタリアのある市では市長の発案でダイエット成功者に報奨金を出すことにしたそうです。
病院で減量前の体重を登録、そして目標減量を達成したら50ユーロ(うろ覚え)、そしてその体重を一年間維持できたらさらに500ユーロ(うろ覚え)が支払われるのだとか。
市長のこの発案のきっかけは、自分一人だけでダイエットするのはつらいので、市民と一緒に頑張ればきっと痩せられると思ったからなんだそうです(+医療費抑制効果を期待)。
イタリアらしい楽しいニュースですね。
2007/08/14
保守か革新か
お久しぶりです。
ブログを書くのは恐らく半年ぶりである。
当時読んでくれていた方々にとってもこのブログは既に忘却の彼方だろう。
まあそれでも構わない。というか仕様がない。
私の自己満足のためにやっているだけなので、次回のエントリーを書くのはまた半年後かもしれないが、ご勘弁を。
(ブログを書かない間も私は元気にやっておりますので御心配なく。近況が気になったらメールを頂ければ幸いです)
閑話休題。
私は日常極めて政治に関心のないふりを装っている。
しかしノンポリ(古い表現ですね)ではない。安保、外交、内政に関する書物には出来る限り接し、私なりの思索を続けている。
でも友人と互いの政治理念について議論をすることは極めて稀である。
何故か。
政治理念は宗教思想に極めて近いと感じる。イスラム教徒とキリスト教徒が互いにそれぞれの宗教の正当性を吟じてもさして建設的な議論はできようがない。それと同じ事だ。
注意して政治理念を語る人を観察すると大雑把にその彼、彼女が右(保守)の立場か左(革新)の立場に立っているのか、それはわかる。それより先の彼、彼女の具体的主張は、かいつまんで聞くだけだ。右が左に、左が右に、互いの主張をぶつけ合っても、それは思想的自慰行為でしかない。
私はずっと自分は右なのか左なのか自問してきた。
結論はこうだ。私の政治的立場は、どちらでもない、もしくは両方だ。
私が政治に関心をもちつつ政治思想をあまり語る事がないのは、それは右も左も結局は同じだと思うからだ。
右であれ、左であれ、究極の理想とする社会は、大差ない。世界中の人間が物質的にも精神的にも満たされ、戦争の無いユートピア状態である。そのユートピア願望は古くはサンシモンから始まり、20世紀初頭から世界各地で起こるマルクス革命とその失敗という結果をもたらしたが、それはあくまで方法論が誤りで、我々が理想とする社会像を築くのがいかに現実的に困難なのかを証明した、それだけのことだ。我々が理想とする社会像というものは、その20世紀最大の社会的実験の失敗を経てもなお変わっていない。
左側にたつ人間はそれでもなおユートピアは明日にでも実現できると信じる。防衛のためのあらゆる能力さえも放棄し、そして偏在する富が万民に満遍なく行き渡る社会を実現しようとしている。しかし今日明日の景気対策、今日明日の軍事的脅威に対してあまり有効な解答を持ち合わせていない。
他方、右側にたつ人間は近視的世界観からなかなか離れられない。現実の脅威、現実の戦争、現実の貧困、これに脊髄的反射で対策を打とうとする。しかしそもそもそれが何故起きてしまったのか自覚なく、俯瞰的に状況をみることができない様は、まるで3歩歩くと忘れる鶏を思い起こさせる。しかし現実の政治、政策というのはそういうものなのだろう。ユートピアを語るだけでは今日、明日家族(国民)を様々な脅威から守り、安心して食べさせていくことができない。かくして現実の政治の現場では往々にしてどの国においても保守勢力が多勢を占める。まあそれは当然といえば当然の事だ。
そうなると政治理念としては両方の視点を持ち合わせた「中庸的立場」がよいのではないか、とも思う。しかし現実の社会で中庸というのは言い換えればノーコミットメントと同じ事でほとんど何も意味しない。そう考えると私は中庸でも右でも左でもなく、すべての政治理念を包含する立場でいたいと考えるが、これがまた難しい。リアリズム(ここでは保守とする)とイデアリズム(ここでは革新)の衝突は結局、宗教発祥の起源を同じくするイスラム教徒とキリスト教徒がお互いを啀み合い、テロとの戦いという名のもと血に血を染める戦いを今日繰り広げているのと同じように、そもそも我々は共通の理想をもつ同門の仲間達なのだ、という重要なことを忘れている気がしてならない。
だから結局私は政治議論を避けたがる。
難しいものですね。
つい最近またそんなことを考えさせられる経験があったので、久しぶりにこのブログに覚え書きとして書き留めることにした。
ではまた。
2007/05/25
ご挨拶
皆様
ご無沙汰しております。
ブログは暫くお休みしています、て半年前からですから見ればわかりますね、ハイ。
最近またいろいろ書きたい欲求が溜まってきたのでブログを再開するかもしれませんし、
いやもしかしたら書くのはまた半年後になってしまうのかもしれません。
とにかくそれまでしばしお休みです。
ではまた。
2007/02/01
マイクロクレジット
少し前の夕暮れ時、僕はある所でボートに乗っていた。
甲板から外の風景を眺めていた。
隣の男が携帯を使って電話していた。
それ自体は気にならなかったのだけど、でも自然と聞こえてくるその言葉、一瞬フランス語か、と思ったのだが、あとはなんだかズーズー弁みたいになってよくわからない。
それでつい横をチラチラみてしまったのだが、男は電話を切った後、「うるさくしてすまない」と僕に言った。
どこの言葉か聞いてみると、ルワンダの言葉らしく、フランス語の語彙もミックスされた言葉らしい。
僕も暇だったからついでに世間話をしていた。
彼は人権法を学ぶルワンダ出身の学生だった。
僕はルワンダに関する少ない知識のなかで、一つ気になったルワンダ大虐殺について聞いた。
彼は、これはフランスのせいだ、だが今は平和な国で外国人が街を歩いていても何の危険も無い、といった。
ボートを降りると、彼は僕の泊まるホテルを地図片手に一緒に探してくれた。
途中ベンチに座る人に「すいませんが、、」とホテルの場所を聞こうとしてくれた。
しかしその白人にきつい口調で"what do you want?"と英語で一言返され、
真っ黒の彼の顔が一瞬曇ったような感じになった。少しかわいそうになった。
最後ホテルをみつけて別れ際、僕は「明日食事をどうだろう?」と誘った。
彼とは翌日、近くのバールで軽い食事とビールを一緒にとった。
そこで他愛もない話をして別れたのだが、彼から聞いた話で一つ、気になった事があった。
彼はルワンダに帰ったら、婚約者と一緒に個人法律事務所を立ち上げたい、といっていた。
ルワンダで個人事業をするのは簡単なことか?と聞くと、銀行からお金さえ借りれれば大丈夫だろうというので、ルワンダにおける事業用資金の銀行融資利率の相場を聞くと「だいたい年利20%前後かな」という。
これは少しびっくりした。まあ何の裏付け資料もないから、実際のところはわからないけど、もしこれがほんとだとしたら、銀行からの融資利率がサラ金なみではないか。
ルワンダをはじめとしたアフリカ経済がずっとテイクオフできないのも、金融経済の未発達に帰する部分も多分にあるのだなと思った。
日本も中小企業が銀行から融資を受けられない場合は一気に商工ローンみたいなところに駆け込まなければならず、そのメザニンがないのが問題だとされている。でも比較論的にはまだマシかもしれない。
銀行から融資を受ける際に年利数十パーセントとか言われたら、それだけで事業意欲が削がれてしまう。
僕がこの話にちょっと興味をもったのは、2006年のノーベル平和賞がマイクロクレジットを実践するグラマン銀行の創立者Muhammad Yunus(バングラデシュ人)に与えられたというニュースを思い出したからだ。
Yunusは、1万円、2万円といった単位で融資を必要とする人達に低利無担保で貸し付けを行った。1万円、2万円だけでも途上国の低所得者層からすればなかなかアクセスができない資金だ。返済率は非常に高く、かつ融資を受けた人達が貧困から脱出するのに大きく寄与したと聞く。例えば鶏肉を売るためにまず卵を仕入れる、井戸を掘るためにスコップを買う、といったことにその数万円を使う訳だ。
途上国経済のテイクオフには重厚長大型社会インフラ整備の他にも必要なことがある気がする。
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2007/01/25
バンコク深夜
ホテルのロビーを出た。
バンコクの暗闇の中を走るべく、ホテル前に停まっていたタクシーに乗り込む。
僕とエリカは目をあわせ、ほっと息をついた。
そして僕は、僕の手をそっと握る彼女の手の温かさに気づいた。
バンコクは夜が更けてもその喧噪が静まる事は無く、人々の欲望と寂しさと悲しみと虚栄を全部織り交ぜて、ますますネオンを輝かせている。
そんな街の光景をみつめていると、タクシーは意外なところで停まった。
そして僕の横のドアをあけてくれた紳士がいた。
フクロウだった。
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エリカは叫びに鳴らない声を上げると、反対側のドアから飛び出そうとした。ドアはなぜか開かない。
僕は状況を掴めず、とりあえずフクロウに「やあ」と間抜けな挨拶をした。
フクロウは言った。「ご苦労さま。」
僕はエリカの方を振り返った。エリカは観念したようにうつむいた。
そして一言、小さく僕に囁いた。「本当はあなたとずっと一緒にいたかったから。」
そう言い残すと、ブルガリ国の末裔は、大男の手荒いエスコートを受けながらベントレーに乗り込んだ。
何度も何度も振り返り、僕をみつめる彼女の表情を、僕は今でもよく思い出す。
(フィクションでした おしまい)
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2007/01/23
ブルガリ
エリカは、最近はすっかりパリとバンコクの往復の生活だ、と言った。
パリ北駅で見かけたエリカの残像のことについて尋ねてみたが、チガウトオモウ、と言う。まあそのことはもういいだろう。僕の勘違いかもしれない。
とにかく僕は彼女に今まで聞けなかった事の幾つかを今度こそ確かめようと意を決した。
「君が何度もタイに行っていたのは、バカンスのためじゃないね。あいつらのマツエイはタイにいる。それを確かめるためだろう?」。
「さすが人探しのプロね。」彼女はそう応えると、あとは否定も肯定もしなかった。
「とにかく私があなたに伝えておかなければいけないのは、、あなたも私もここに長くは居れないってこと。じきにフクロウ達がやってくるわ。あなたも同業者なら分かるでしょう?」。僕は小さく頷くと、Lipsの腕時計の針をもう一度確かめた。
...........
あいつらの末裔とは、それはつまりブルガリ国の王族の末裔のことだ。
東欧に位置するブルガリ国の王制が共産革命で倒れた際、王族は処刑を逃れてパリに亡命し、その後身分を隠してひっそりと生き続けていると長い間信じられていた。
その後時代もまた変わり、ブルガリ国及びその周辺諸国の独裁的共産政権が倒れた。
そして元々の王位継承者を再び元首に沿え、王制国家として国の威信を取り戻すべきという政治運動が高まった。そこで権力のおこぼれに預かろうとする人々は国を跨いで末裔探しに血眼になっていたわけだ。
そこに僕らのビジネスが成り立っていた経緯がある。
僕らのクライアント、つまりブルガリ国の豊富な金鉱資源の採掘権掌握を狙うダビアスグループからは、個人事務所がバイトを雇ってやっていくには十分すぎるくらいの資金が入っていた。
でも末裔はパリにはいなかった。すくなくとも僕の心ばかりのプロフェッショナリズムの誇りをかけていえば、そうである。フクロウとバイトと僕の三人でパリ中のありとあらゆる住民台帳を調べ、ありとあらゆる番地をつぶしていった。
パリではなくタイにブルガリ国の末裔がいる、という噂は一部の同業者の間でも囁かれていたし、僕もその可能性はあると思っていた。タイ北部の革命ゲリラはブルガリ王族をかくまうことでその莫大な財産の一部を手に入れ、タイ警察権力も立ち入れないくらいの影響力を保っていたと考えれば合点が行く。
「とにかく、もうここには居れないわ。」彼女は僕に一緒に部屋を出るように促した。
(フィクション つづく)
※暫くお休みしていましたが、今後もたまに更新していく予定です。
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